裸のまま窓辺に立ち、いつものように外を眺めていると、咲坂がコーヒーを入れてくれた。
「あの、こんなことしてもらっては」
困ったように言う涼子に、咲坂は小さく笑った。
「きみが言わなければバレないよ」
穏やかな口調で続ける。
「でも、コーヒーより先に、服を着たら?」
いつもの人なつっこい声。
涼子はその声を心の中にそっとしまった。
下着を身につけ、咲坂が手渡してくれたバスローブを羽織ると、ふたりでベッドの端に腰かけた。
芳醇なコーヒーの香りを大きく吸い込むと、頭の中がすっきりとする。
そんな涼子を横目でみていた咲坂が、
「すこし、話してもいいかな」
と言った。
めずらしく遠慮がちな咲坂の言葉に、涼子は思わずうなずく。
「今日は素直だね」
「コーヒーのお礼です」
涼子が言うと、咲坂は、ありがとう、と微笑んだ。
「ほんとうはね、もう、きみを指名するつもりはなかったんだ」
「え?」
「前に会ったときを、最後にしようと思っていた」
それは意外なようで、でも、やはり、と思わせる言葉だった。
それでも、なぜ、とは訊けなかった。そのかわりに、涼子は静かに咲坂をみつめた。
咲坂は、大きく息をつくと、
「僕は、女性に触れても、何も感じないんだ」
と言った。
「ほんとうに見ていることしかできない」
と。
「自分自身が欲情することはないんだ」
涼子は黙っていた。
自分のことを欠陥品のようにいう彼を、まるで自分のようだと思いながら。
「前に僕が言ったこと、おぼえてる?」
「前に、言ったこと?」
「『きみとはまだそこまでの仲じゃないから』」
おぼえています、と涼子はうなずく。
今考えると、あの言葉がすべてのはじまりのような気がした。
「あのときはああ言ったけど、『そこまでの仲』になる人は、僕には決してあらわれない」
声は悲しげに響く。
涼子は、この男がなぜか悲しみに包まれているように感じた。
たぶん、この部屋に入ってきたときに感じた、あの違和感。
「どういう意味ですか」
聞いた自分をまぬけだと思った。
「そのままの意味だよ」
咲坂は、笑っていた。
「触れたいと思わない。見ていても感じない。ただ、ほんとうに見ているだけ。それですべてだ」
「どうして、そんなことを私に言うんですか」
「どうしてだろうね。きみの裸はきれいだった。あいかわらず触れたいとは思わなかったけれど、とても魅力的だと思ったから、かな。そういう気持ちすら、今まで持てなかったから」
「どうして、指名するのをやめようと思ったんですか」
「ごめん、それも、よくわからないんだ」
「じゃあ、どうして、今日また、私をよんだんですか」
言いながら、これじゃまるで尋問だ、と思った。
涼子は苦笑しながら、ごめんなさい、とあやまった。
咲坂は、いいよ、と笑う。
そして、
「でも、その質問にも、わからない、としか答えられないけれど」
と言った。
涼子は、どうしていいのかわからないような気持ちになりながら、
「なにもわからないんですね」
と言った。
「そう、なにもわからないんだ」
咲坂も言った。
コーヒーを啜り、しばらくの間、ふたりは無言になった。
リラックスしているようで、お互いがひどく緊張しているのが、痛いほどに張り詰めた空気でわかる。
コーヒーカップを両手で包み、中の茶色い液体にぼんやりとうつった自分の顔をながめると、それはひどく歪んで見えた。
ふいに、言わなければ、という思いがあふれてくる。
その思いが次第に大きくなると、言葉は、とても自然に紡がれた。
「私も、触れられることになにも感じないんです」
突然の涼子の告白にも、咲坂は何も言わない。
じっと、涼子をみつめている。
「だから、この仕事をはじめたんです。ただ見られることは、とても気持ちがよかったから。そのうち、触れたいとか触れられたいとか、そう思うことすら面倒になっていました」
そこで、涼子は一息つき、でも、と続けた。
「でもほんとうは、心のどこかで、そんな自分を嫌いだった」
「どうして?」
「私は自分が満足していれば、それでいいと思ってたんです。男の人に見られながらオナニーして、それでいいと思っていた。でも実際は、愛された体になることを望んでた」
愛された体、と咲坂は繰り返した。
「でもきみは、自分の行為が異常だとは思わないだろう?」
責めているのではなく、自分に言い聞かせるような口調だった。
「以前はそうでした。でも、いまは、異常かどうか、その判断基準がよくわかりません」
涼子は素直にこたえた。
咲坂も同じ気持ちであればいい、と願っていた。
「そもそも、ノーマルなセックスって何だろうね」
自嘲気味な笑みを浮かべた咲坂は、このまま壊れてしまうのではないか、と思えた。
ほんとうはそんな自分を誰よりも嫌悪していて、けれど、触れられない自分をどうすることもできなくて、身動きが取れなくなっているようだった。
「僕もきみも、自分を偽ればいくらだって世間でいうところの『ノーマルなセックス』が出来る。それをしないのは、自分に正直だからじゃないかな。自分を偽ってまで他人に触れたくない。少なくとも、僕はそう思っている」
涼子はふと口元を緩めてしまう。
そう、自分も咲坂も自分に正直なだけ。
ただ、自分を守りたいだけ。
でも、だったらどうして、この人はこんなに悲しそうなのだろう。
「そうですね、確かにあなたの言う通りなのかもしれません」
ただ、と涼子は小さく息を吸い込んだ。
「ただね、ときどき、本当にごく稀にだけど、私は自分を消したくなる」
消えたくなる、といったほうが正しいのかもしれない。
触れられても感じないと決めつけ、自分のまわりを殻で固めて、傷つけられるのを怖れる。
「あたしは、そんな風に自分に正直な自分が、あまり好きではなくなりました。そんなの、本当は触れたくて仕方ないくせに、自分を守るために相手を傷つけるのと同じやり方だもの」
「………」
「いちばん深いところにある気持ちって、ほんとうは自分以外の人にどうにかしてもらえるほど単純じゃないと思う。人に慰めてもらっていくらか解消することもあるかもしれない。けれど、最終的には自分でどうにかするしかない。自分で自分を消すか、そのさみしさと折り合いをつけて上手くやっていくか」
そう言いながらも、涼子は、自分の言っていることさえも本当はちがうのではないか、と思っていた。
そんなのは、言い訳にしか過ぎないことを、心のどこかでわかっていた。
他人に甘えるという過程を、拒絶している自分たちは、ただ怖がっているだけなのだ。
そうすることで、自分のすべてを他人に知られることを。
咲坂に会って、今こうして話をしながら、いつの間にか涼子はそれに気付いていた。
ちがう出会い方をしていたら、この人に優しく触れることが出来ただろうか。
咲坂の視線から逃れようとするように、涼子は目を伏せた。
「ほんとうは、触れられたいと思うほど、人を好きになったことがなかっただけなんです」
気が付くことができれば、こんなに簡単なことはない。
考えること自体を拒んでいた自分がいて、そうすることで、守られている気になっていた。
それは、おさなすぎる自己防衛。
そんな自分がかわいくも思えたけれど、同時にとてもかなしいと思った。
皮肉なことに、涼子がはじめて触れ合いたいと思った相手は、いまだ、触れられることも触れることも拒みつづけている。
これは、今まで繰り返してきたことへの罰なのだろうか。
男と寝ることに何の快感も得られないと、自分の殻に閉じこもり、何の犠牲もない自慰行為だけを繰り返し、すべてを拒んできたことへの。
ふふ、と知らぬ間に声が漏れていた。
寂しげに響くかと思われたその音は、涼子自身がおどろくほどの明るさと軽さを含んでいた。
「なんだか、いっぱい話しちゃいましたね」
饒舌すぎた自分に気まずさを感じ、涼子はおどけてそう言った。
「いや、話せてよかったよ」
咲坂は、さみしい笑顔のままだった。
「咲坂さん」
「ん?」
「どうして私と話してみようと思ったんですか」
こたえはわかっていたけれど、どうしても訊いてみたかった。
「どうしてかな……。自分でもでもよくわからないんだ」
そして、咲坂のこたえは、涼子の予想していたとおりのものだった。
「ただ、きみと何かをはなしてみたくなった」
その言葉を聞くと、涼子はうれしそうに微笑み、さてと、と言って立ち上がった。
静かに窓辺に近づき、ホテルの外から見える東京の冷たい光を見下ろした。
自分のいないその景色は、でも、いつもより少しだけ温かい気がする、と思う。
この人に触れたい。
涼子はそう思った。
好きなんだ。
そう確信したとき、どこかに忘れていた開かずの扉の開く音が、聞こえるような気がした。
何も言わずにいる咲坂の視線を感じて、涼子はゆっくりと振り返った。じっと目を覗き込む。
相変わらず寂しそうな目だ、と、思った。
「自分が傷つかないために、人を愛さないなんて、そんなかなしいことは、もうやめます」
「リョウ…?」
きっと、あなたを傷つける。自分の欲望を満たすためだけに、私はあなたに触れる。
ベッド脇のサイドボードにコーヒーを置き、涼子はゆっくりと咲坂に近づいた。
寂しい光をたたえた瞳から視線を逸らすことなく、涼子は小さく、ごめんなさい、と言うと、すっかりあたたまった両手で咲坂の頬を包んだ。
触れた瞬間、咲坂がわずかに震えるのがわかったが、気付かないふりをして、頬に触れたその手で咲坂を上向かせた。
視線はそのままに顔を近づけ、苦いコーヒーの香りのする唇を、ゆっくりと静かに重ねた。
END
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