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圭一が休みの日は、必ず二人で散歩をする。マンションの裏には、川があり、河川敷は散歩をするのにうってつけのコースだった。
今日は、雨が降っていたのだけれど、圭一は、いつものように誘ってくれた。そういうとき、私は修平を思い出すことなく、圭一を好きだと思えた。日常や習慣をとても大切にする圭一。穏やかで優しくて、まるで、春の雨のような私の夫。
二つの傘を差し、手をつなぐと、二人ともひじから先が濡れてしまった。
「こっちに入れば?」
圭一がそう言ってくれたので、私は傘をたたみ、圭一の傘にもぐりこんだ。
散歩中、私たちは、ほとんど話さない。そのかわり、ずっと手をつないでいる。
たまに、きれいな景色を見たり、散歩中の犬にじゃれつかれたりすると、散歩に出てよかったね、と二人でよろこんだりはするのだけれど。
今日は降り続く雨のせいか、誰にも会わずに散歩を終えることになった。おかげで私は、ゆっくりと圭一の左手を感じることができた。右手は、眠る時にいつも感じている。でも、左手は散歩のときしか握れないのだ。そういう圭一との小さなことを、私は大事に思うようにしていた。体のつながりがないことを、小さな幸せを見つけることで埋めたかった。
私は、圭一を愛しているのだから。
部屋に戻り、薬缶を火にかける。熱い紅茶を入れようと思った。圭一は、私の入れる紅茶が大好きだ。お気に入りの紅茶茶碗に注ぎ、ゆっくりとそれを飲みながら、冷えた体を温めるのは、二人にとって、なんだかとても特別なことに思えた。そして、それを思いついた自分が誇らしかった。
薬缶の前に立っていた私のとなりで、圭一が肩口の濡れた服を脱ぎながら、あ、と声を上げた。
「どうしたの?」
「そうだ、言うのをすっかり忘れてた」
圭一は本当にすまなそうな顔をした。
「なにを?」
「明日から一週間、出張になったんだった」
聞いた途端、私は絶望的な気持ちになった。今までの幸せが、一気に崩れていくような、そんな気分だった。
一週間。そんなに長い間、私は一人に耐えられない。今だって、ぎりぎりなのだ。帰るべき理由があるからこそ、帰ってくることができる。
私は、自分の弱さを知っている。圭一がもどってこないこの家には、私を連れ戻す理由がない。修平と会ってしまえば、私はそのまま帰る気を失くすかもしれない。かといって、修平に会わずにいることも、到底できそうにもなかった。
私は、圭一を愛している。本当に、大切に思っている。圭一を手放すことなんてできない。
そこまで考えて、私は愕然とした。
これではまるで、修平に心を奪われているようだ、と思った。長い時間修平のそばにいることで、私は修平の心を求めてしまうかもしれない。修平に気持ちがありながらも、圭一を裏切ることを怖れている。
何かがおかしい、そう感じたとき、私は気付きはじめていた。
これではまるで…。
――その恋人も、やっぱり体だけなの?
不意に、江利子の声が聞こえた気がした。
体だけ、のはずだ。修平に執着はしていない。ただ、足りないものを彼で埋めているだけ。離れようと思えば、いつだってできる。
そのために、私は帰ってくるのだから。これ以上、修平を好きにならないように…。
「ごめん、昨日急に決まったんだ。準備とか、大変だよね」
私が固まってしまっている理由を知らない圭一は、
「お土産、買ってくるから」
などと言う。
本当にごめんね、そう付け足し、いつものように、髪を優しく撫でてくれたが、頭に乗せられた圭一の左手は、とても冷たく感じられた。
自分の中の矛盾に気が付いてしまった私は、ただ、立ち尽くすしかなかった。
圭一が出張へ行ってから五日間、私は修平へ連絡しなかった。
会ってしまえば、私はきっと帰って来られなくなる。それは、確信に近かった。
修平からは携帯へ電話が入っていたけれど、どうしても出ることができなかったのだ。それでも、メールはしない、という約束だったから、修平は決してメールを送ってくることはなかった。
六日目の夕方、再び修平からの電話がなったとき、とうとう私は泣きそうになりながら、通話ボタンを押した。
「……はい」
「あさみさん?」
いつもと違うトーンの私の声に、修平は慌てたようだった。
「あさみさん、どうかしたの?」
私にはそれが、どうして泣いているの?と聞こえた。
「電話に出ないから、心配してたんだ」
そう言った修平の声は、相変わらず優しかった。電話の向こうの顔は、きっとあの顔だ。寂しいような困ったような表情。
「大丈夫、なんでもないわ」
安堵する自分に、少し苦笑しながらこたえる。
「声が、全然大丈夫そうじゃないんだけど」
それは、怒っている声だった。でも本当に、もう大丈夫だったのだ。修平の声を聴いた瞬間、私の中の不安は、不思議な速さで消えていった。
「もう、終わりなのかと思ったよ」
「ごめんなさい」
「このまま、あさみさんの声すら、聴けなくなるのかと思った」
苦しそうな修平の声に、胸が痛くなった。そうして、次の瞬間、自分の言葉に耳を疑った。
「会いたいの。今すぐ、修平に会いたい」
電話の向こうで、修平が息をのんだのが分かった。
しばらくの沈黙の後、修平はいつもの優しい声で言った。
「待ってて。いますぐ行くから」
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