スイートジャスミンティー  


1  

 

この感情をどう言えば伝わるのだろう、と、恋人の腕に抱きつきながら、私は考えた。
無償の愛が欲しいわけではない。ただ、体が欲しがるものを満たしたい、それだけなのだ。そう言ってしまえれば、どんなに楽だろうと思った。
「あさみさん?」
修平のやわらかい声が、私をまた夢の中へと誘う。
そう、ここは夢の国。すべての望みが叶うお菓子の家。
「もう一回、しよう」
頷くかわりにキスをする。抗う理由などいくらでもある。けれど、自分よりももっと自分自身を知っている何かが、修平の声には抗えない。
その腕に体をゆだね、私はこの世でいちばんだ幸せを感じさせてくれるセックスをする。
体の求めるままに。

「今日は泊まっていけるの?」
夕闇の迫る狭い部屋の中で、寂しげな表情をした修平が訊く。とろけそうに甘いセックスのあとの、寂しいような困ったような修平の顔。
お願い、そんな顔をしないで。
「いいえ、帰らなきゃいけないわ」
ごめんね、と彼の肩にキスをし、脱いだままになっている下着を手に取った。
「あと少しだけ」
ブラジャーのホックを止めるために背中に回した腕を掴まれ、強引に唇を重ねられる。
されるがままにしばらくその舌を味わってから、再び夢に引きずり込まれてしまいたい欲求を抑え、私はもう一度あやまった。
「ごめんなさい。でも、やっぱり帰らなくちゃ」
泊まる気はない。はじめから、これっぽっちも。帰る場所があるのだ。帰らなきゃならない理由があるのだ。待たなければならない人がいる。だから、決して泊まらない。
修平の髪を撫で、言い聞かせるように、ごめんね、と言い、目を伏せた。
「今日は、帰るわ」
修平は笑った。寂しいような困ったような表情で。
「今日も、でしょう」
一途で、かなしい、でも仕方ないといった顔だった。
私は誘惑を断ち切るために、小さく息を吸い込む。ソファに掛けてあった服をすばやく身につけると、鏡の前で、自分が「元通り」であることを確認し、玄関へ向かう。
「またね。おやすみ」
修平は追いかけてきて、やさしくまぶたに口付けてくれた。
「おやすみなさい」

修平の家から私の家まで、タクシーで1メーターの距離しかない。たったそれだけの距離なのに、私にはまるで、国境を隔てているかのように遠く感じた。
国境どころじゃない。別世界だ。
そう思い、タクシーの後部座席から、逃げ出してきた世界を振り返る。名残惜しいけれど、もう時間なのだ。タクシーは何の躊躇もなく、私を現実の世界に引き戻してくれる。
結婚という現実の待つ世界。それは特に苦痛を伴うものではなかったけれど、かといってすべて満たされた穏やかなものでもなかった。
きっと誰しもがそうなのだ、と、私は思っている。繰り返される日常に溺れて、息が出来なくなる。それが結婚というものだ。それに耐えられるかどうか、上手な息の仕方を学べるかどうか、ただそれだけの問題だと。
――それで?あんたはどうしたいの?
夫のほかに恋人を作ったことを話したとき、友人は眉をしかめてそう訊いた。
――どうって?
――だんなと別れてその男と一緒になるの?
――いいえ。
彼女がどうしてそういうことを訊いたのか、私にはさっぱりわからなかった。
修平のことは好きだけど、夫のことはそれ以上に愛している。私たちに足りないのは、愛情ではなく肉欲。結婚してから一度もない関係。夫と離れるか、それを他所で埋めるか。簡単な二者択一。
――あんたの考えてること、よくわからないわ。
彼女は呆れたようにそう呟いた。私には、わからないことこそが理解できなかった。こんなにシンプルなことを、どうしてわからないのだろう。
――自分が女じゃなくなるのが、耐えられない。それだけよ。
着きましたよ、と運転手の声がして、私は顔を上げた。
バッグから財布を出すと、ワンメーター分の料金を払って車を降りた。

「おかえりなさい」
玄関のドアが開く音がしても、私はキッチンから出ない。鍵をかけ、靴を脱ぎ、廊下を歩き、まず洗面所で靴下を脱ぐ。目にしなくても、圭一の動きはわかっている。結婚後、少しの狂いもなく繰り返される日常。
「ただいま」
キッチンまでたどり着いた圭一は、ロールキャベツの鍋を覗き込んでいた私を後ろから抱きしめてくる。
「おかえりなさい。今日は忙しかった?」
私は火を止め、最愛の男を振り返り、そうして少しだけ思う。こんなに愛されているのに、と。
「まぁ、いつも通りかな。今日はずっと内勤だったし」
「あ、早く着替えてきてね。もう出来てるの」
そう言うと、圭一は嬉しそうに微笑んだ。
夕食を終えると、圭一はリビングで、私は寝室で、それぞれの時間を過ごす。これも結婚してからずっと続いていることのひとつで、圭一はテレビを、私は読書を楽しむ。
たまに圭一が寝室をのぞく。何を読んでいるの、とか、アイス食べよう、とか言いながら、私のご機嫌伺いに来る。私はいつも、きちんと答える。先週出たファッション誌に連載中のコラムを読んでるの、とか、バニラなら食べるわ、とか。
そして、どちらかが自分のしていることに飽きた頃、そろそろ寝ない?と声をかけ、一緒のベッドにもぐり込み、手をつないで眠るのだ。
「キスしていい?」
もう何年も一緒にいるのに、眠る前に圭一は必ず訊く。返事の代わりに、彼の右手に絡めた左手に力を込めると、圭一が覆いかぶさってくる。
穏やかなキス。優しく唇に触れると、静かに去っていく。私はそれを追いかけない。これが、圭一のキスだから。
圭一は、大学の同級生だったが、在学中は話したこともなく、卒業後に、共通の友人を介して知り合った。いい人だな、と思った。背が高くて好みだ、とも思った。優しくて穏やかで同級生だとは思えないほど落ち着いているように見えた。実際、付き合ってみると、思ったとおりの男だった。セックスは優しくて穏やか。私は自分が愛されていると知っている。激しさだけが愛情ではない。ただ、それを求めてしまうのは、私自身の欲でしかないこともちゃんとわかっている。
圭一とキスをしたあと、私は修平の唇を思い出しそうになり、悲しくなった。夫を愛しているのに、と自分を呪う。
カーテンの隙間から、僅かに月の光が漏れていた。
「おやすみなさい」
顔を傾け、圭一に言った。

 
   
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